気象トピックス・コラム
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霧が左右した戦国時代

 
皆さんは、霧が利用された歴史上の出来事があるのをご存知でしょうか。
 
その一つに、長野県北部の信濃川上流で12年にもわたって行われてきた戦いの中でも最大となる1561年10月28日(永禄4年9月10日)に起きた第4次川中島の戦いがあります。
 
武田信玄は、山本勘助と馬場信房に上杉軍に勝つために作戦案を立てて命じ、兵を二手に分け、規模の大きな本体とは別の部隊の編成を作りました。
この別の部隊に妻女山の上杉軍を攻撃させて、上杉軍が勝っても負けても山を下るため、これを平野部に陣を構えている中心となる隊が待ち伏せし、本体とは別の部隊と両方からはさみ撃ちにして劇破する作戦です。
これは啄木鳥がくちばしで虫が隠れていて姿を見せない木を叩き、びっくりして飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、啄木鳥戦法と名づけられました。
 
翌日の川中島は、濃い霧で識別不能に近い状態になっていました。
日が昇って霧が晴れて、早速、移動を始めようとした武田軍は非常に驚きました。
挟み撃ちにしようと思ったら、いつの間にか敵が目の前に勢ぞろいしていたのです。
上杉軍は車懸りの陣と呼ばれる戦法で武田軍に襲いかかりました。
自ら愛馬・愛刀で信玄に迫り、切りつけましたが、この時当初上杉軍の背後を突くはずだった武田軍の別の部隊が来たため、謙信も引き上げ、引き分けとなったと言われています。
 
ところでこの戦いで現れた霧は、放射霧と呼ばれています。
放射霧は、風が弱く晴れた夜に地面からの熱が大気中に逃げていき、地表面の温度が下がって空気中の水蒸気が小さな水滴になってできるものです。
この霧は、日が昇って地面が暖められると消える性質があります。
川中島は長野盆地であり、信濃川も流れているため、水温が気温より高い場合に生じる川霧や秋の晴れた日で放射霧が発生し易い気象状況となっていました。
 
天下分け目の関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日、西暦ではきょう10月21日にあたります。
この有名な戦いの日も放射冷却によるもとの思われる霧が発生し、夜明け前に布陣した両軍でしたが8時頃まで身動きとれなかったと記録にあります。
 
このように、霧が歴史上のできごとに関わっていたことを知ると、昔も今も天気が私たちに与える影響力の大きさを改めて実感しますね。